今回紹介する章は「Ⅱ妖怪の思想史」。兵庫県立歴史博物館主査の香川雅信氏の寄稿となります。
思想史というと難しそうですが、古代から現代まで、妖怪の研究の歴史の変遷が
まとめられています。それを更に簡単に分かりやすくまとめていきます。
古代から中世~公的にも認められた存在!?~
さまざまな怪異は、「神仏からのメッセージ」としてとらえられた時代です。
そしてそのメッセージがそのような予兆であるかを解釈することが、
「知的」な対応とされていました。
この時代は、神祇官(じんぎかん:古代朝廷の祭祀を司る官庁名)などの公的機関などでも、
こうした怪異を解釈するための卜占がおこなわれており、
妖怪は正に実在するかのように扱われていたのです。
江戸時代①:妖怪研究の出発点~実在しないのに社会にはある~
近世に至り、江戸幕府は公的な怪異の解釈をやめ、妖怪は公的には存在しないものと
されてしまいます。
しかし、さまざまな伝承が残っている通り、現象としては怪異は社会で発生しており、
ここではじめて日本人は「公的には存在は認められていないが、社会現象としては存在するもの」
をどう解釈するのかを求められ、知識人の立場から知的な言及が必要となったのです。
これが妖怪研究の本格的な始まりです。 この頃の知識人と言えば、江戸幕府公認の学問でもある
「儒学(朱子学)」の学者達。
一般的な彼らは怪異や妖怪について語りたがらないイメージですが、
実際には多くの儒学者が民間の俗信や妖怪について言及しており、
これらの議論は「鬼神論」と呼ばれています。
江戸時代②:平田篤胤の斬新な研究~フィールドワークの元祖~
他の儒学者達が怪異に対する祭礼などを合理的に解釈するスタイルをとる中、
怪異・妖怪の「実在」を証明しようという当時としてもかなり異質な言説を解いた学者が
いました。それが国学者・平田篤胤です。
彼の学問の特徴は、現代におけるフィールドワークのような研究方法です。
当時の学問といえば、文献に基づいて思考を行うものでしたが、
篤胤は実際に幽冥界に行ったという人に聞き取りを行い、
より現実に即した形で研究を行うスタイルでした。
ところで、2019年に広島県三次市に「三次ものけミュージアム」という歴史博物館が
オープンしましたが、三次市がなぜ妖怪に縁があるのか分かりますか?
江戸時代中期、三次の藩士・稲生平太郎の元に、彼をおどかそうとさまざまな
妖怪が訪れるのですが、平太郎は見事に最後まで耐えきるという『稲生物怪録』という記録が
あり、絵巻も多数残されています。明治以降、小説、戯曲、神楽、漫画にも
取り上げられるようになったため、妖怪に少しでも興味がある人なら、必ず耳に入る物語です。
この記録を幽冥界の実在を証明する資料として編纂したのが平田篤胤なのです。
しかし、これらの研究は前述したように、当時も世間には受け入れられにくく、
江戸時代における世間の妖怪に対するイメージは、公的に存在を否定された時点で、
もはやリアリティのあるものではなくなっていたのです。
明治:井上円了の妖怪学~「妖怪」という単語がメジャーに
江戸時代、われわれが「妖怪」と呼んでいるものは、
学者においては「鬼神」、庶民においては「化け物」と呼ばれていましたが、
仏教学者・井上円了の『妖怪学』より、「妖怪」の言葉が学術用語として
使用されるようになりました。
とはいえ、円了のいう「妖怪」の定義はかなり広く「日常的な論理では解釈できないもの全般」
のことを指し、「不思議」とも言い換えることができるもので、
流星、蜃気楼などの自然現象や占いまで「妖怪」の定義に含まれていたようです。
円了の研究スタイルは、基本的にはそれまでの一般的な儒学者達の研究を踏まえています。
すなわち、「不思議なもの=妖怪」に合理的な解釈を与える、というものです。
しかし円了の研究が特殊だったのはその最終目標にありました。
それは「本当の不思議」である「真怪」の研究です。
「妖怪」の中でも故意に作り出された妖怪、偶然の怪異、自然現象などを全て排除した後に残る、
人知の本当に及ばない「真正の妖怪」を研究することを円了は望んでいましたが、
研究内容の多くは、
世の中の不思議を合理的な解釈の元、ことごとく否定することに終始しているようにみえるため、
円了の研究は残念なことに「迷信撲滅」の学問だと一般的には認識されています。
とはいえ、円了の妖怪研究の功績は大きく、それまで学者達のものであった妖怪の研究を
一般の人でも分かりやすい著作を発表し、
何よりも「妖怪」という言葉を世間一般に広めたのです。
本来の円了の使っている「妖怪」と今日の「妖怪」は意味が若干違いますが、
当時の庶民は、それまでの「化け物」という言葉に代わる、
最新の語彙として「妖怪」を受け入れ、それが今日の妖怪文化にも継承されているのです。
大正:風俗研究としての妖怪~容姿に特化~
円了の妖怪学が「妖怪が実在するかどうか」を論点にしていることにより、
自然科学的な妖怪研究と言えますが、妖怪がいるかいないかはひとまず置いて、
妖怪を人間の想像力の産物として、変遷やその背景にある心意などをときあかそうとする、
いわば人文科学的な妖怪研究が大正期以降に現れてきます。
その走りが風俗史家の江間務(えまつとむ)です。
彼が1923年に出版した『日本妖怪変化史』は妖怪の歴史的変遷やその容姿・性質を分類し、
整理しようと試みたものでした。妖怪がいる、いないに関わらず、
昔の人が妖怪をどうとらえていたのかをただ資料に沿ってありのままに整理する、という
妖怪そのものが人文科学的な研究対象であるという立場をとったのです。
私もこの考え方に概ね賛成で、現代における妖怪研究はこの立場に沿ったものが
多いのではないでしょうか。
そして江間の研究で特徴的なのは、妖怪を「変化するもの」と「変化しないもの」分け、
「変化するもの」をその特徴によって更に細かく分類していく、というものでした。
江間がこのような容姿、すなわち視覚的特徴に重点を置いていたのは、
もともと彼が主宰していた風俗研究という学問が、
絵画を制作するための補助的な学問としていたことに由来しているとされています。
風俗画・歴史画を描くことがメインの活動としてあり、
そのそれが時代的に正しいものかを検証するうえで、
古い絵画資料の収集などに元々力をいれていたのです。
その背景を踏まえると、妖怪の容姿というビジュアル的なものへの関心は、
風俗研究者はもともと強くもっていたと言えるでしょう。
そして特筆すべきは、江間の『日本妖怪変化史』をはじめとする
この時代に発行された妖怪絵画に関する書籍は
のちに漫画家・水木しげる先生の妖怪画の源泉になり、
現代の妖怪イメージに大きな影響を与えるものとなったのです。
昭和①:柳田國男の妖怪研究~妖怪は神の零落した姿?~
民俗学者として有名な柳田國男も、江間と同様に妖怪がいるのかいないのかは置いておいて、
妖怪の人文科学的な研究の必要性を説く立場にありました。
それを象徴しているのが、1936年に発表した「妖怪談義」の中の以下の一説です。
ないにもあるにもそんな事は実はもう問題ではない。我々はオバケはどうでもいるものと思った人が、昔は大いにあり、今でも少しはある理由が、判らないので困っているだけである。
この一節は、未だに現代でも通用しそうな表現ですね。これだけ科学が発達しようとも、
怪しいもの、不思議なものがあたかも実在するかのように世間で取り上げられるのは、
今も柳田の時代も変わらないようです。
さて、柳田の研究は主に前述の『妖怪談義』にまとめられているのですが、
この中に柳田の妖怪研究の集大成ともいえる重要な仮説が2点述べられています。
一つは「妖怪はかつても神が信仰を失って零落した姿である」というもの。
もう一つは「妖怪と幽霊の分け方」です。それは以下の3点の指標にまとめられています。
・妖怪は出現する場所が決まっているが、幽霊はめざす相手の元に向こうからやってくる
・妖怪な相手を選ばないのに対し、幽霊は相手が決まっている
・妖怪は宵や暁の薄明るい時刻に出るのに対し、幽霊は丑三つ時(真夜中)に出る
・・これ、疑問に思う方も多いですよね。
無差別に現れる幽霊、現れる場所が決まっている幽霊など、
この指標に当てはまらない事例はいくらでも思いつきます。
よって当然、この仮説はあらゆる研究者から否定され尽くしているものなのです。
この仮説を柳田が唱えた昭和初期は、都市での幽霊談が多く現れてきた時期であり、
農村の中の伝承や、そこに結びつく前時代の生活を研究対象としていた柳田にとっては、
「近代」「都市」と強く結びつく「幽霊」を自分の研究対象と切り離すために、
このような少々無理のある仮説を立てたのではないかと、香川氏は述べられています。
昭和②:妖怪研究の停滞と妖怪ブーム
1956年(昭和31年)に柳田の『妖怪談義』が発行されたのを最後に、
妖怪研究は停滞期に入ります。民俗誌などに妖怪論が掲載されることもなくなり、
人々の間から妖怪への関心がほとんど消えてしまった時期でもありました。
そこから妖怪がふたたび注目を集めるのは、1970年代に入ってからになりますが、
これほど停滞している妖怪文化に再度火をつけるには相当な影響力かと思われますが、
そのきっかけとなったのは、水木しげる先生の妖怪漫画なのです。
1968年(昭和43年)、『ゲゲゲの鬼太郎』のTVアニメ放送開始と共に、
一大妖怪ブームが訪れます。現代の妖怪観の大部分はこの時に形成されたと言っても良いほど、
水木先生の描く妖怪のイメージは日本人に強力に影響を及ぼしました。
この年、『週間読売』『伝統と現代』といった一般の雑誌にも妖怪に関する特集が組まれ、
『妖怪学入門』(阿部主計著)のような概説書も生まれました。
妖怪への興味は一般の人々にも浸透するようになり、
ここにきて妖怪は一気に大衆の中でブームを巻き起こしたのです。
昭和③:新たな妖怪論の誕生~切り口の多様化~
低迷していた日本人の妖怪に対する関心も、妖怪ブームにのり再燃する中、
新たな妖怪論が1980年代に誕生します。その中心人物となったのが小松和彦氏と宮田登氏です。
(両氏の書籍には、卒論の際に大変お世話になりました・・・!)
小松氏は、柳田の「妖怪は神の零落したもの」説に異議を唱え、
神が妖怪へと変容するばかりでなく、妖怪も神に変わることがあり、
それは祭礼の有無のよるものだという説を提唱しました。
また、1985年(昭和60年)の『異人論』では
妖怪伝承は単なる風変わりな民間信仰などではなく、
民俗にとっての「異人」すなわち被差別民に対するイメージが含まれたものであり、
民俗というものの忌まわしい側面を物語るものであることを示唆しました。
宮田氏は1985年(昭和60年)の『妖怪の民俗学』で、
それまで農村などいわゆる田舎特有のものと考えられてきた妖怪が、
都市空間のなかにも出現するようになったと述べています。
超自然的な存在は「妖怪」と「神」の二つの側面を持ち、妖怪として現れるのは
自然と人間との調和が崩れた時であるとしています。
そして都市はその開発に伴い自然の破壊に他ならず、
そうした場所が怪異の発生する「魔所」であるとしたのです。
ゲゲゲの鬼太郎でも、森林を開発しようとした工事現場で妖怪が・・・というエピソードは
多く見られますね。
また、橋や辻など何かと何かの狭間にある「境界」もまた、
そのような怪異の発生しやすい非日常な場所であり、
特に若い女性が介入することで怪異が訪れやすくなすという指摘をしています。
(ちなみに私は『口裂け女と境界』というタイトルで卒論を書きました(^^))
平成:妖怪研究とエンターテイメント~妖怪は大衆のもの~
この頃になるとの博物館・美術館でも妖怪関連の企画展が次々と催されるようになり、
妖怪への関心は高まります。
そして妖怪研究は、エンターテイメントと強く結びつくことになるのです。
このあたりになると、一般の方にも耳慣れた固有名詞がたくさん出てくることかと思います。
まずは小説の分野では、リアリティをもたせるための仕掛けとして
妖怪研究の成果を参照するという手法を用いた
夢枕獏の伝奇小説や、京極夏彦の妖怪ミステリーなどが有名です。
そして香川氏は妖怪研究がエンターテイメントの分野に最も大きく影響した作品として
「学校の怪談」をあげています。
「学校の怪談」は民俗学者の常光徹が追求していた研究テーマで、
すでに滅びたと思われていた妖怪伝承が、学校という特殊な空間の中で、
現代でも生き続けていることを明らかにしました。
常光は研究成果を論文としてもまとめていますが、1990年(平成2年)から7年間かけて
子供向けに「学校の怪談」の児童書を出版し、これが爆発的な人気を博したことで、
一大「学校の怪談」ブームが起こります。
これにより、実際にこども達の間で語り継がれていた怪談さえも、
映画や漫画の影響を受けて変遷してしまう、という現象も起こったようです。
妖怪が大衆の文化に直接影響する、というのはピンとこない人もいるかもしれませんが、
1979年に社会現象にまでなった口裂け女の噂を経験した人は多いのではないのでしょうか。
江戸時代以降、妖怪は娯楽や大衆文化と深いつながりがあることは認識されていましたが、
それはあくまで、日本文化の二次的な要素、つまり「おまけ」に過ぎませんでした。
しかし昭和から平成の妖怪ブーム、社会現象を通して、
妖怪という大衆文化はもはや無視できないものとして一般にも認知されるに至ったのです。
更に大きな変換として、妖怪の「キャラクター化」が挙げられます。
かつてはリアルなものとして恐れられていた妖怪としてのリアリティは徐々に消滅し、
娯楽・キャラクターとしての妖怪文化が主流になっていったのです。
現代の流れが正にそうですね。
こうして、かつては「公的に存在するもの」として扱われていた妖怪は、
長い時間と多くの研究者の解釈を経て、
今は大衆文化の立派な1カテゴリーを獲得するまでになったのです。
この事実は、
間違いなく妖怪が古代から現代まで生き続けてきたことを意味していると私は思うのです。
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